2008年5月28日水曜日

祈りについて1

クリスチャンにとって、祈りは特権であり、また神から力を頂く場でもある。

私たち人間は、自分の思いをじっと胸の中に秘めておくことができない者だ。これを何らかの形でだれかに言わないではいられない。子供が母親に何でも話すのは、その良い例であると言うことができよう。だんだん大きくなると、恥ずかしいという気持や、親は本当に自分のことを理解してはくれないという思いが起って、親に話すよりも友達に話したり、日記に記したり、インターネットのブログで発表したりするようになるだろう。それでも不満足な場合には、一人で物思いにふけるようになり、それを一人言のようにして言うこともあるだろう。人が自分の思いを言い表さずにいられないのは、人格的存在として造られているからである。人格的存在は、いつもほかの人格的存在を必要とし、それと交わらないではいられないのだ。ところが、一人の人には一つの人格しかないから、人はだれでもほかの人を必要とするのだ。

私たちの霊は、すべての思いを言い表すためには、どうしても完全な人格を求める。自分の悩み、悲しみ、苦しみ、また喜び、楽しみなど、すべてをありのままに注ぎ出して語るためには、その相手が偉大な存在でなければならないのである。このような存在に対する私たちの霊の思いの吐露、人格的交わりが祈りなのである。私たちは元々弱い者だから、偉大なお方である神に依存して生きる存在として造られている。

だから、祈りは人間の最も深く、聖い心からの声であると言うことができる。どんな宗教でも、その最終的に行きつくところは祈りであると言われるが、それは、このような意味から理解することができるわけである。

ところで、キリスト教の祈りというものも、そうした人間の側からの要求の表われ、また思いの行きついたところ、つまり極致にすぎないものなのだろうかと言うと、必ずしもそうではないのである。聖書の教える祈りというものは、私たちの霊が神の霊と交わることにほかならない。そうしないでは生きていくことができないように造られている私たちの霊が、造り主であり、天の父であるお方と交わる交わりなのである。だから、祈りとは、しなければならないものではなく、しないではいられないものにほかならない。そういうわけで、クリスチャンが祈らないと、霊的呼吸困難に陥ってしまうのである。