2008年2月13日水曜日

クリスチャンになってよかった 8/10

またある時のこと、いやがらせ電話が夜中に掛って来たことがあった。それは冬の真最中のことであった。夜の十二時を過ぎると電話が鳴るのだ。寒い中、寝床から起き出して、受話器を取ると、しばし無言のまま、電話を切ってしまう。寝床に入って、しばらくすると、また電話が鳴る。もしかすると、教会員からの緊急の電話かもしれないと思って起き上がり、受話器を取ると、全く同じである。そういうことが一晩に3、4回は起る。しだいに、こちらも腹立たしい思いになってくる。

その時、私は神が私に教えてくださった。この人は、こんなことをして自己満足をしている気の毒な人なのだ。この人は神の祝福を頂いて心が満たされていないから、こんなことをしているにちがいない。この人が祝福されるために祈ろうと思った。あの御言葉が示されたからである。
「あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福こそすれ、呪ってはいけない。」(ローマ12:14)

私がこの御言葉通りその人の祝福を祈った時、不思議とあのいやがらせ電話は来なくなった。御言葉が教えている通りのことをすれば、神は大きな祝福を与えてくださることが体験できた。それは、クリスチャンというのはだれでも自分が赦されたという体験をしているので、ほかの人を責める資格などないということが分っているからである。次のように教えられている通りである。
「お互いに親切にし、優しく振舞い、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、あなたがたも互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:32)

憎しみを持って生きることほどつまらぬことはない。時として憎しみをバネにして、そこに生きがいを持とうとしている人がいるけれども、それでは自分自身を傷つけて終ってしまうのがオチである。まず体を害し、心を傷つけ、ズタズタになった人生を送らなければならない。

しかし、赦すことのすばらしさを経験してからは、人生が自由になった。憎んでいる人がいれば、その人を避けて生きていかなければならないが、憎んでいる人がいないのであれば、何の気兼ねも必要がない。いつも心は晴れやかである。これは、ある特別に修業を積んだクリスチャンにだけ出来ることではなく、すべてのクリスチャンにとって出来ることである。神の御言葉である聖書を本気で信じると、その御言葉が私たちのうちに実現するのである。