2008年2月23日土曜日

人間はなぜ幸福でないのか3 - 人生の目的が分らないから

私たちは人生の目的や意味が分らないと、幸福ではない。人間は、意味や目的が分らなくなると、生きることに戸惑いを感じるものだ。

ロシヤの文豪ドストエフスキーが、「死の家の記録」の中で、こういうことを書いている。彼は若いころ、政治犯としてシベリヤへの流刑になった。そのときに彼が見た拷問であると言って書いているのだが、二つの桶があって、一つの桶には水が一杯入っている。その桶の水をもう一つの空っぽの桶にあけるのだ。あけ終ると、今一杯になった水を、それまで一杯であって、今空っぽになったばかりの桶にあけ変えるのだ。そして、それを繰り返すのだ。一日だけの仕事ではなく、来る日も来る日もこれを繰り返させる。

何でそんなものが拷問になるのかと考える人がいるかもしれない。もしもこれをやっているうちに、桶の底がいつ抜けるかという実験であれば、そこに目的もあるし、意味もある。けれども、繰り返し繰り返し、いつ果てるともしれないこの動作に、人間は肉体的に参ってしまう前に精神的に参ってしまう。ドストエフスキーは、「その人は自殺するか、発狂するかである」と書いている。

また、彼は臼の中に砂を入れ、それを杵(きね)で突かせる拷問もあったと書いている。蒸した餅米であるなら、お餅になる。しかし、いくら砂を突いても何にもならない。これは拷問なのである。

人間は、何のために生きているのかということが分らなければ、生きることに苦痛を感じ、戸惑いを覚える。それが人間なのである。だから、何のために生きているのかということが分らないため、多くの人は幸福ではない。

それでは、何のために生きるのかということはどうしたら分るのだろうか。人間が偶然に存在したと考える人は、自分のちっぽけな頭で考えだしたお粗末な考えしか思い浮かばないだろう。機械を正しく取り扱うためには、その機械を作った人によるその取り扱い説明書に従わなければならないように、また薬を効果的に服用するためには、その薬製造者による服用説明書に従わなければならない。私たち人間をお造りになった神が私たちの人生の目的を持っておられる。それが、人間の取り扱い説明書である聖書なのである。それを無視していたのでは、決して幸福になることはできない。