2008年2月3日日曜日

人間として生きる8 - アガペーとエロース

私たちは「愛」という言葉をさりげなく使う。しかし、古代のギリシャ人は、これを四つの言葉を使って、使い分けている。それは、アガペーとフィリアとストルゲーとエロースである。ギリシャ語を使って書かれている新約聖書では、このうち最初の二つ、アガペーとフィリアが出て来るだけである。アガペーは神の愛、フィリアは友情の愛と分けて考えることもできないことはないが、新約聖書においては、この二つの言葉は、ほとんど同じ意味に使われていることが多い。

ストルゲーというのは、肉親の情を表す言葉で、これとエロースは聖書の中には出て来ない。エロースという言葉は、今日ではほとんど性的な愛であると思われているが、元々はそうではなかった。プラトーンが説いているところによれば、相手の中にある良いものとか、美しいもの、気高いものなど、その価値を認めて愛するのがエロースの愛なのである。私たちだれかを愛する場合、このエロースの愛から出発するのは自然だと思う。

たとえば、ある女性を愛する場合、容姿が美しいから愛するとか、心が温かいから愛するということはあっても、頭も悪いし、不美人でもあるし、心は鬼のようで、その上お金もないのになお愛するということはまずありえないだろう。ほかのものに欠けていても、この一点において優れているから愛するというのが普通だ。私たちがだれかを愛する場合、このエロースの愛からスタートしていくことになる。

ところで、このエロースの愛というのは、自分のためという動機がその根底にあるから、当然、自分のために獲得するという性格を持っている。このエロースという愛だけであれば、利害関係が相反することになれば、必ず奪い合いが起り、衝突を避けることはできない。

それに対して、アガペーの愛というのは、それとちょうど反対で、人に与えるという性格を持っている。だから、エロースの愛だけでは必ず衝突が起るのを、アガペーの愛がそれを解決してくれるわけである。

ところで、エロースの愛は、人間だれでも生れながらに持っている。しかし、アガペーの愛は、人間のうちにはない。それは神だけが持っておられる愛である。だから、この神の愛を度外視していて、私たち人間の間の問題が解決される道理はないのである。