2008年2月5日火曜日

クリスチャンになってよかった 7/10

クリスチャンになってからでも、虫の好かない人、嫌いな人というものはいるものだ。そういう場合、以前なら、いつも悪いのは相手の方だと言って、その理由を数え立て、自分を正当化したものである。しかし、そんなことをして自己満足していても、事態は全く変ることはない。

人からひどいことをされて、それを赦すということは、そんなに簡単なことではない。しかし、人を赦すことの喜びを体験した時、それは何とも言えぬものであった。

聖書の中には、すばらしい教えがいくつもある。たとえば、次のようなものがそれである。
「あなたの敵を愛しなさい。」(ルカ6:27)

「あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福こそすれ、呪ってはいけない。」(ローマ12:14)

もしもこれが出来たらすごいと思っていた。そして、その通り出来る人というのは、ある特別な人であって、それはクリスチャンとして目標とはなりえても、現実にそのようなことをするのは不可能であると思い続けていた。

ある時のこと、私はひどい中傷に遭ったことがあった。根も葉もないこと、全く身に覚えのないことだったから、なんでそんなことを言われなければならないのか、面食った。面食っただけでなく、その人を憎みもした。私が教会のお金を使い込んで、こっそり埋めたという非難中傷である。私は教会会計の帳簿を触ったこともなければ、お金をいじったこともないのに、なんでそんなことを言われなければならないのか分らなかった。とにかくその人を憎んだ。

私への中傷を聞いて、本当だと思い込んだ人は、ワープロにそのことを打ち込み、日本中にばらまいた。だから、私はその人をも憎んだ。彼らは、教会で除名処分を受けたが、その逆恨みをして、その後もそのうちの一人は年賀状を寄越した。そのお年玉付年賀はがきには、こう書いてあった。「眠られぬ夜を過しているのではありませんか。そろそろ悔い改めたらどうですか。」それを見て、私は胸くそが悪かった。たといお年玉付年賀状が一等の当選をしていても取りには行くもんかと思った。

しかし、その時、神が私に教えてくださったことは、神の御手の外において起ることは何一つないのだということであった。神の許しなしに起ることはないのである以上、ここにも神が何か目的をもって、それをするのを許しておられるのだということが分った時、私はその人を赦すことができたのである。